—— 音楽に目覚めた切っ掛けとは
小さい頃はスポーツ少年で、音楽なんて全く興味なかったんですけど、小学校4年生の時に先生がバッハのレコードを聴かせてくれたんですね。その時にもの凄く感動して、音楽の素晴らしさに目覚めてしまったんです。正に自分の中に音楽の神様が降りてきた感じでした。そして翌日、バスケット・ボール部を辞めて、ブラスバンド部に入って(笑)。そこからはずっとトランペットを吹いていましたね。
Studio Oneの魅力を語る山口氏
今思うと、バッハの音楽の良さはループ感ですかね。バッハの曲って、やさしい旋律が延々とループしていく感じなんですよ。僕は後々、ヒップホップにどっぷりハマるんですけど、ああいう音楽にも通じるループ感がバッハの音楽にはあるんです。ゆったりとしたテンポで、このまま永遠に続くんじゃないかというループ感。後はたくさんの楽器によるアンサンブルですね。その響きに一気にやられてしまったというか。
高校に入ってからは友人達とバンドを組んで、パンクを演奏していました。僕はベースで、髪の毛を立てて、女の子にモテたい一心で(笑)。そのバンドはけっこう人気があったんですけど、途中から自分だけ浮いているなと思い始めたんですよね。みんなで曲を持ち寄っても、自分が持っていく曲は他のメンバーとは趣向が違っていて..。それから間もなく、ファミレスで自分以外のメンバー全員にバンドを辞めると言われてしまったんですよ。彼らは3人で新しいバンドを組むと。要するにクビ宣告ですよね。その時はひどく落ち込みましたよ。丁度その頃、大学受験にも失敗し、彼女にも振られて、正に人生のどん底でした。でも音楽は好きで諦められなかったので、自分はバンドが無理だったらエンジニアになろうと思ったんです。それで電気系の大学に進学したんですけど、何か突然不安になってしまったんですよね。
山口氏がミックスを担当したクレモンティーヌ初のディズニー公式アルバム「CLEMENTINE SINGS Disney」
エンジニアというのは才能がなければなれない職業だろうし、自分にそんな才能があるのかと..。それで大学を休学して、サンフランシスコの大学に留学することにしたんです。一度海外に行って、英語を学びながら自分の将来について真剣に考えてみようと。サンフランシスコでは悶々とした日々を過ごしていたんですが、向こうで仲良くなったストリート・ミュージシャンに将来について相談したんですよ。自分はエンジニアになりたいけど、才能があるかわからないから不安だと。そうしたら、「ヤス、才能があるかなんて自分で決めることじゃないよ、本当に好きな事を毎日一生懸命やっているうちに、人が少しずつ言い始めることなんだよ」と言われて、そこで目が覚めましたね。自分は何を悩んでいたんだろう、エンジニアになりたいんだったら、とにかくその世界に飛び込むしかないんじゃないかと。
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—— サンフランシスコから帰国して直ぐにビクタースタジオに入社されたのですか
そうですね、知り合いに紹介してもらったビクタースタジオの奥原さんに連絡を取り、「エンジニアになりたいので就職させていただけませんか」と頼み込みました。普通だったら門前払いだと思うのですが、僕がしつこく頼むものだから入社試験を受けさせてくださって。晴れてビクタースタジオに入社することができたんです。
僕は大卒で、海外にも留学したりしていたので、先輩がみんな年下だったんですよ。当時は僕も若かったので、そんな年下のヤツに教えてもらえるかと思って(笑)、社内では完全に孤立していましたね。それで仕事が出来ればまだサマになるんですけど、失敗ばかりしていつも怒られていました。そしてある時、呼び出されて「本当にやる気はあるのか」と質されたので、「やる気だけはあります」と答えたら、「だったらオレが教えてやるから少しは真剣になってみろ」と言ってくださって、そこからはいろいろ教えてもらいました。あれが無かったら挫折していたかもしれないので、奥原さんには本当に感謝していますね。
江戸時代に建立された薬王寺内にmonk beat studioを設立
それでアシスタントとしていろいろな仕事に関わらせてもらうようになったんですが、これはすごい偶然なんですけど、高校時代にクビになったパンク・バンドがビクターからデビューすることになったんですよ(笑)。その仕事にもアシスタントして付かせてもらったんですが、パンクの音に関してはこだわりがあったので、メインのエンジニアさんに「この楽器はこういう音にした方が良いと思います」とかいろいろ言っていたら、「そんなに注文付けるなら、お前がやれば」と言われて(笑)。それで有難いことにミックスまでやらせて頂いたのですが、そのアルバムがかなり評価されたんですよ。その作品がきっかけになって、エンジニアとして仕事をするようになった感じですね。
—— ビクタースタジオ時代で特に思い入れのある作品は
Charaの「Tiny Tiny Tiny」(註:1995年発表のシングル)ですね。彼女がYEN TOWN BANDでブレイクする直前で、あの曲のレコーディングの時、お腹の中にはSUMIREちゃんがいたんですよ。だからもの凄く愛情が溢れた曲に仕上がっているというか、僕自身も思い入れがありますね。今聴いても良い曲だなと思いますし、Tiny Tiny Tinyのようなサウンドにして欲しいと依頼されることも未だにあるんですよ。
やっぱり音楽を生み出す上で大切なのは、愛情だとか情熱だと思うんですよね。愛情や情熱を持って曲作りに向かわないと、聴き手に何も伝わらないものになってしまうというか。逆に愛情や情熱をたくさん注げば、人の心を震わるだけのエネルギーを持った曲が生まれる。Tiny Tiny Tinyのレコーディングを振り返ると、スタジオの中にはCharaの愛情が溢れていましたし、周りのスタッフ達の情熱も凄かった。だからこそああいう素晴らしい曲が出来たんじゃないかと思います。僕はスタジオで作業をする際、必ず花を飾るんですよ。それは自分達が作り出している音楽に愛情を注ぎたい想いからなんです。
先日、久々にCharaと仕事をさせてもらったのですが、彼女もStudio Oneを使っているそうです。おもしろいですよね、当時Charaの作品に関わっていた人達が、申し合わせたかのようにStudio Oneを使い始めている。Studio Oneに、何かそういう力があるんですかね?(笑)
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